■茶の歴史

茶の伝来

わが国に初めて茶が伝えられたのは、いつの頃だったのでしょうか。古い記録では奈良時代には「行茶の儀」がすでに行われていたと記され、それが茶の始まりだといわれています。平安時代の初め、伝教大師最澄や弘法大師空海などが中国(唐)から茶を持ち帰り、その喫茶法を伝えた事実は広く知られています。そのころから、わが国の茶樹の栽培は始まっていたと思われます。その当時のお茶は世界最古の茶書「茶経」によって伝えられているような餅茶(団茶)でした。

碾茶の起源抹茶の碾く前のお茶を碾茶といいます
鎌倉時代の初め、中国(宋)から帰国した栄西禅師は、当時中国で行われていた碾茶の製法とその喫茶法を日本に伝えました。栄西は「喫茶養生記」を著して茶の効用を説き、茶の実を栂ノ尾高山寺の明恵上人に贈り、茶の栽培と愛飲をすすめました。こうして抹茶の喫飲が国内に広まってまいりました。

宇治茶の起こり
栂尾茶の栽培をはじめた明恵上人は、やがて茶の成育に適した風土を求めて、天与の条件に恵まれた宇治を選びました。やがて、宇治茶の名声は世に広まり、足利義満が、「宇治六園」を諸将に開かせた頃には、天下一の茶どころとなり、広く知られるようになりました。

茶の湯と抹茶
室町時代にはじまった茶の湯は、村田珠光、武野紹鴎などによって世にひろまりました。やがて千利休が、茶の湯を大成します。そのころ宇治で工夫された覆下茶園は優れた抹茶を生み出し、茶の湯の大成にあいまって全国の茶人の所望するところとなりました。そのかげには宇治の製茶家によるたゆまぬ努力があったことはいうまでもありません。豊臣秀吉や徳川将軍家も常に宇治茶の振興に力をそそぎ、茶の湯と宇治茶が不可分のものとなりました。


■千利休(1522〜1591)

安土桃山時代の茶人。堺の人。名は与四郎。宗易と号す。侘茶の大成物で、千家の開祖。茶の湯を武野紹鴎に学ぶ。草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、また楽茶碗の製作・指導などをした。織田信長・豊臣秀吉に仕えたが、後秀吉の命により自刃。

■千道安(1546〜1607)

桃山時代の茶匠。号は可休斎。利休の長男。利休とともに豊臣秀吉に仕えたが、利休死後、弟少庵がその後を継ぎ、不遇に終わったという。茶室・道具・茶事などに独自の工夫を凝らしたといわれ、道安囲い・道安風炉にその名が残る。

■千宗旦(1578〜1658)

江戸初期の茶人。利休の孫。号、元伯・咄々斎。茶道家千家の再興に努めた。子の宗左・宗室・宗守を分家させて、表・裏・武者小路、三千家の基礎を築いた。


■茶の湯とやきもの

南宋貿易が盛んになる鎌倉時代には、中国から文化財や物資が多数入ってきました。その中には立派なやきものもありました。わが国でも同じ品物の製造が試みられましたが、当時は貴族・寺院などの上流社会での需要に支えられただけなので、生産量はあまり伸びなかったようです。青磁や天目茶碗などが禅寺の献茶や供物用に使われました。


しかし、室町時代の後期になると地方の豪族・武士などの勢力が伸張し、その治下の民衆の活動が活発になると、物資の流通も多くなりました。
足利義正は文化面では超一流の人物で、村田珠光を召し抱えて茶の湯を整えさせました。その後、武野紹鴎によってさらに発展したのです。
この頃になると、貴族・武士ばかりでなく、富をもつ町人の間でもやきものは流行し次第に需要が伸びていったのです。


次いで信長が上洛、天下統一がなって安土桃山時代に入りますと、やきものの技術・意匠に変革が興り、天目から瀬戸黒・黄瀬戸・志野といったやきものが生まれました。
天下は秀吉に引き継がれ、千利休と言う茶の湯の名人の輩出がありました。茶の湯が盛んになるにつれて、やきものの需要が多くなりました。茶の湯に用いる茶碗・茶入れ、茶事飲食用の器物にも、やきものの趣向が取り入れられその需要もますます増えていったのです。


華やかな桃山時代を背景に、千利休と秀吉以下各大名、富豪の商人と、茶の湯はまことに隆盛を極めました。利休の詫び茶の精神から楽焼のようなもの寂びたやきものが生まれ、一方では華麗な織部焼が新しい美しさを創りました。

このページは、丸久小山園ホームページ・大辞泉を参考にしています。

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